昭和52年04月12日 朝の御理解
御理解 第29節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」
昨日は森部の高山さんの所の、謝恩祭がございました。もう永年毎年何時も五月の十一日でしたけれども、今年から四月の十一日と定め直して奉仕するようになったんです。私は大体一度、神様からこうと決められたら、もうどんな事があっても、それを貫くというのが私の生き方なんですけれども。今度はその事のお届けがありましたら、すぐお許しを頂きました。
それはどうしてかと思っておりましたら、丁度この四月の十一日がご主人であります、高山利光つぁんの帰幽日に当たるのです。それからその前日があちらのお母さん、お婆ちゃんの帰幽日一日おきです。ですからこの五月の十一日から四月の十一日に変えて頂くと、ね。もう御霊様達の言うなら、慰霊のお祭りも一緒にさせて頂く事が出来る。御霊達もあの喜ぶだろうからと言うのが、日にちを変更する理由でした。
だからでしょうすぐお許しを頂きました。おかげを頂いて今度改式も、愈々決心が付いてされる事になりましたのですから、まぁこれからいわゆる四月の十一日が、高山家の宅祭りそれから、先祖の言うならうからやからの御霊様達と一緒に、主人とお母さんの言うなら帰幽日に当たりますので、まぁ有難い慰霊祭も出来る事になる訳であります。私は今日この二十九節を頂いてから、思わせて頂くのですけれども。
あそこのご夫婦が丁度この、桜の花と梅の花の信心を、持ち合わせておられたような感じが、今朝するんです。二人とも段々おかげを頂いて、教会の総代を努められたり、それから奥さんも婦人総代を務められる。まぁ夫婦で総代を務められるというのは、合楽で初めてでしたけれども、その頃からお父さんの信心が、なんとなしにぐずぐずぐずついて、まぁお参りも出来んようになりました。
昨日お祭り前に丁度、高芝さんとまぁ話した事でしたけれども、矢張りあちらは高芝さんのお導きです。初めてのお参りと言うのは、田主丸に今のむつ屋の前身であります、秋山さんと言う所で、私がお話に行っとりました。もうあの時分はもう沢山集まりました。当時の椛目の先生が来るというので、もう本当にもう一杯、それでもう秋山さんの家の部屋のね、全部を納戸ころまで開けて座らんならんという様に、多ございました。それであのむつ屋の二階に変わったんです。
あんまり多かったから。その丁度秋山さんの所にお話しに行っておる所に、たまたまその高芝さんのお導きで、お話を聞きに見えられました。それからその翌日私はあのどうしても、自分でも記憶が覚えませんけれども、私は椛目の二階で暫くお取次ぎをさせて頂いた事があったんです。あらどういうわけであったか知らんけれども、二階でお取次ぎさせて頂きよった。あの正一郎さんがお父さんとお参りしてくる時がね、あの二階ば上がらんだった時代があったでしょうが。あの時分です。
ちょっとこうやって下を見たら、その昨日お話聞きに来とった高山さんと高芝さんと二人で、こうやってやって来よりますもん。ほほうあの人も参って来よるばいのと思うて、まぁその時、どう言う事のお取次ぎをさせて頂いたか知らんですけれども、あの昨日のお話を頂いて、もうほとほと感心した。こんなお話を今まで聞いた事がなかった。けれどもその先生が立ってお話をなさるのに。
説教台が無いんじゃいかんと言うので、早速田主丸の何とかという、ひものやさんに頼んで説教台を作らせるように言うて来たと言う様な事でした。それから数日後その説教台が出来まして、今使っている説教台がそうなんです。あれを自転車に乗せて、あれがこう箱物のようならまだ、よいですけども片一方が開いてますからね。荷台に乗せてこう積んだけれども、こう後ろに下るわけです。だから自転車に乗られませんから、田主丸から丁度椛目に一里半ですから、一里半の道を押して持ってきた。
そしてもう大変それこそ、この説教台に念を入れた事やら、まぁ色々とお話出した事を黙って聞きよりましたけども、もうあっはは、そのまぁ何とはなしに、その説教台のお供えをしたのが、やっぱこう引っかかるんです。それで高山さんあなたが、折角、説教台のお供えをなさったけれどもね。例えばほんならお月次祭たんべんにお参りになる。私がこの説教台の前に立ってお話をする。
そのお話もさる事ながら、あぁあの説教台は、俺がお供えしたとずうっと、あぁたが思うたり考えたりするごとあっては、折角のお供えがおかげにならん。と言うてまぁあの時分な大変まぁ、激しいお取次ぎさせて頂いておりました時分ですから、もうびっくりしてからお供えさせて頂いて、こげん怒られるとは、私は初めてと言うてから、帰られたという話があります。
ですからもうお供えしてから、こげんするごたるならという様な事で、それから暫くお参りして見えられませんでしたが、お参りしなさらなきゃならない事が起こったんです。と言うのは私は先日今度、合楽便りにあちらをその家を記事にするので、この頃竹内先生と幹三郎と、あちらへ行ってるのです。あんまり突然だったから、話が話にならなかったそうですけども、翌日参って見えてまぁ色々話しておるうちに、あれも話しゃ良かったこれも話しゃ良かったという話でございました。
あの時はあの山に檜苗が植えてあって、干ばつで枯れあがってしまった。それでそれは、先日言った五反部だったそうです。私は一反か二反かだと思いよった。五反部のまぁだ、高山さんが大してまぁ有力な苗木屋さんじゃない。もうその五反部に植えつけるのが、五反部枯れてしまうならもう本当にそれで、また大変困った事になると言う様な事で、もうそれこそ一生懸命の思いで、そのお願いに見えました。
当時御本部から頂いて来とりますす、御神水がありましたから、その御神水とお神酒を下げて、それから沢山のお水にそれを割って、そしてこれをそのまぁ言うなら、五反部の苗に掛けなさいと。もうなんまり心配のあまり、山小屋がありましたそうですが、その山小屋に夫婦がその泊まって、そして山小屋でもうそれこそ、一晩中一生懸命御祈念をした。それから明くる日まぁ夜が明けた、目が覚めた表へ出てからもう腰が抜けると言う事は、この事だろうかと言うて。
その時お届けそこんとこだけ、私は覚えてますけれども。もう腰が抜けると言う事は、この事だろうかと言う様にびっくり仰天した。と言うのは昨日まで枯れあがっておった、檜苗がですね。もうそれこそ露を上げるほどしに、瑞々しゅうその青々となっとったと言う事なんて、もうそれこそ驚いてしまってね。それから高山さんのご主人の朝参りが始まりました。まぁ一生懸命その時には、まだ奥さんは参って見えません。ご主人が一生懸命朝参りをまぁして参りました。
それから段々おかげを頂いて、山林をお届けして買われる。買われるとそれがもう大変な値上がりをする。また買われるまた大変な値上がりをする。もうそれこそあの瞬く間に、おかげを頂かれて今のあの立派なお家が出来たんです。その頃からほんならご主人の信心、信心一つのお酒を沢山召し上がりましたからねぇ。やっぱりお酒のせいで、色んな失敗やらがあって、それから信心も総代の御用まで頂いておったにも関わらず、出来んようになりその酒がいわば、命取りになった訳ですけれども。
そこの辺から奥さんが一生懸命、信心されるようになりました。まぁ皆さんもご承知のように、あちらの奥さんの信心は、中々もう実に何と言うですかね。もう教えが身に付くという生き方でした。もう実に深いです。そして神様からもう的確に色々お知らせを頂かれるようになりました。丁度その頃でしたが夜の御祈念に、親戚から来とる娘さんやら、高山一家で、五、六人あれは何ち言うですか。あのオートバイの後ろに、こう箱がついとる、オート三輪ですかね。
オート三輪に乗ってあのお参りをしておられる途中、丁度秋永先生所からちょっと出た、そこの歯医者さんがあります所の前で、大型トラックと正面衝突をしました。それでとにかく大変ひどい、もう前は勿論びっちゃげてしもうとりますけども。その三輪車ですからね。後ろもそのボテですか箱がね、千切れてからとにかくこっちん畑んとに、人間な両方の畑にそれこそ、跳ね飛ばされてしもうとったんです。そらもう親戚のもんすぐ嫁入り前という娘さんも連れて来とったんですけども。
もうそん時に一番口に、久恵さんと言いよったが、久恵さんが怪我したち言うのが、一番口じゃったち言う。そして、もう、あちらに倒れる、こちらに倒れしとって、実際に起こしてみた所が、まぁ気絶状態であったけれども、誰もみんな怪我もしてなかった。もう這うようにして、あの今の高山トモエさんが、バスであのお届けに出て見えました。他の者はまぁそのまますぐ、トラックが病院に運んだ。
運んだけれども高山さんが額口に、ちょっと傷が出来ただけで、他の者は無傷と言う様な、奇跡的なおかげを頂いた事やら、まぁ色々まぁ話がございます。そこからです例えば、そう願えばおかげになる。願えば奇跡的な神様の働きを身に受けるという。そう言う所から、次にはほんな、言うなら、しみじみと神様におすがりしなければおられないような信心。言うならばおかげではなくて、反対の言うなら事柄が、次々と起きて来る様な時代が随分続きました。
その時に私は奥さんの言うならば、主人はそんな事で信心を、もうやめたも同然のような、年に何回しかお参りが出来んと言った様な状態になったけれども、奥さんの信心がいわば、一生懸命の信心になり、まぁ今日の御理解で言うと、だからご主人が桜の花の信心で、言うなら奥さんの信心が、梅の花の信心で、今日あのようにして信心が続いている。一家を挙げて信心が出来る様になった事になります。
だから信心をさせて頂いておりましても、自分の都合良いとか、思う様になると言う事だけが、信心じゃないと。いや思うようにならない時こそ、深いご深慮のある時だからと、そこを信心を続ける。そこからが私は梅の花の信心と言う事になるのじゃないかと思います。それから言うならば本当な信心。例えばあの大根でも牛蒡でもそうですけれども、もう、段々あのとうが立ってきます。見掛けは変わらんごとしとるけれども、とうが立つ頃には、中身は空になってる時です。
大根でももう中が巣がほげて、すぱすぱになって食べられない。漬物にもならないという事になるのです。信心もねこのとうが立ったらお仕舞いです。信者教会の中にもあります。一時は隆々たるおかげを頂いた言うなら教会であっても。とうが立ってくると中身がなくなりますから、いわばすぱすぱになり食べられない事になる。そこで私共がとうは立たんで済むような信心というのは、私は言うなら梅の花の信心だと思います。
昨日一昨日でしたかね。御理解の中にもありましたように、一切が神愛と受けられる。一切が神愛ですよと説明をすれば、誰しも大体分かる。成程この世の中に無駄はない。自然界にはもう人間を幸せにせずにはおかん。丸う円満にせずにはおかんという働きだけしかあってないんだと言う事は、理屈を聞けば分かる。だからそれを信心では神愛とこう言う。一切が神愛と言うけれども、分かっただけじゃおかげにゃならん。
一切が神愛という事を、実感する所から、例え難儀な事があっても、それを神愛として受けて、それこそ涙がこぼれるような思いで、それを受けて行く事が出来る。ためにはね一切が修行だという受け方が出来ずして、一切神愛と言う事は、実際には分からないんだと言う事で御座います。昨日一昨日の御理解。だから一切が神愛と分からせて頂いた所には、もう極楽世界です。
一切がおかげと言う事ですから。有難い事ばっかりなんです。ですからそういう心が、開けてくる事の為に、先ずほんなら一切が神愛だと言う事が分かっただけではなくてです、どう言う事が起きてきても、それをこれが修行だと。神様が私に求め給う修行だと。わざわざ水かぶったり火の行やらしたり、断食をしたりせんでも良い。一人ひとりの人間の上にです起きてくる様々な様相、様々な問題難儀それを、自然がさぁ丸うなれ、さぁ大きゅうなれ、豊かになれよと下さる問題であると確信したならばです。
いや確信が段々強うなってくる訳ですから、それをほんなら信心させて頂く者が、それを修行として受ける。これが合楽理念の修行感です。合楽で火や水の修行はこれ以外にはないんだと。いわゆる成り行きを尊ぶ、成り行きを大事にすると言う事なんです。わざわざあっちから持って来てする事は要らん。自分の前に流れ着いて来るものを、有難く受けて行けとこう言うのです。自分の上に起きてくる問題、そのものを修行と受けよ。その修行と受けて初めて一切が神愛と分かる、だから私がおかげを頂くはずよ。
皆さん分かるでしょうが。私は他に様々な修行もしてみた。けれどもどうしても自分の心に、ぴったり来る修行がない、おかげにならない。そこで私の上に起きてくる、どういうそれが問題であっても、それこそ黙って受けると言う事を修行と。始めの間は神愛とか、成り行きを尊ぶとか、大切にすると言う事は分からなかった。それを修行とすると頂いた所に、私の信心の飛躍があったように思うのです。ですからもう腹を決めてるでしょうが。起きてくる問題をだから金を貸してくれと言えば金を貸す。
金そくれという者には金をやる。もう棒にも箸にもかからんごたる病人をお願いしますと連れてくりゃ、はいよっしゃと言うて引き受ける。もう腹が決まってるんですから、私だけではない、私一家の者がそういう生き方が出来たと言う事です。あの当時の事を皆さん、ご承知の通りであります。ね。ですからです四年半、それがっとした頃にはです、初めて私の上に起きてくる問題、その全てが修行として受けた。それがほんなら神愛であったとはっきり分かった。
そこから合楽の信心真の信心は、これだという風に段々なって来た訳です。起きてくるその問題そのものをです、いわば修行として受けると言う事が、成り行きをいわば大切にする事にもなるのです。ですからそういう信心を、私は今日は梅の花の信心という風に聞いて頂いた。例えば高山さんの奥さんの場合は、それから様々な人間関係、いろんな問題暫く親と子が、あっちこっちで生活せんならんと言った様な事態にもなって行った。けれどもそれを例えば、高山さんの場合はもう修行として受け抜いた。
親戚の者が何と言うても、どういう風に言うても、娘婿達がもうあんまり強情張りなさるなら、構いまっせんばいと言う。はぁ幾ら構うて貰わんでも良かと言うて、一つの事を貫いた。いわゆる信心辛抱を貫いた。おかげで一つ一つが成就していった。一つが成就すると、また次の問題が起きてきておった。その問題をまた信心辛抱で、まっ受けて今行きつつある信心が、今出来ておね。だからそういう信心辛抱をしなければおられないような、いわば所に差し掛かったときにです。
信心してどうしてこんな事がと言った様な事であっては、それはもうあなたの信心は、桜の花の信心だと言う事になる。そこを一切を修行として受けるという生き方、そうして行くうちに、考えてみりゃあれも神愛でした、あれも神様の、言うならおかげを下さろうとする働きでしたと分からせて頂いて、初めて一切が神愛実感のこもった、一切が神愛と言う事になるのです。
そういう信心が、繰り返されて行く所にです。何時も瑞々しい神様を身近に感ずる事が出来るのです。とうは立ちようがない。水気がなくなってすぱすぱするようになってしまう。もうそこには生きた神様を感じられない。そういう信者がどのくらい多いか。そういう教会がどのくらい多いか分からない。いわゆるぱぁっと桜の花が咲いたようなおかげは頂いても、次々と起きてくるその問題を、どうしてこんな問題がと言う様な事になってくるから、それを受けると言う事になってこない。
修行として受けきらない。そしてあられぬ修行ばかりをする。天地に通ずる通うような修行、それは私の前に現れてくる問題。その問題との対決なんだ。私の前に起きてくる問題と対決。矢張り力がなからなければ負けてしまう。それを例えば神愛だと、段々分かってくる事になって来ると、それが楽しゅうなってくる。もうそら苦しいけれども、心の中じゃにこっと笑おうごとなってくる。
いやぁこの修行を通り抜いたなら、神様がどげなおかげ下さるじゃろうかと思うてから、楽しゅうなってくるですよ本当に。そういう信心が繰り返されて、合楽の信心がある。そしてほんなら、今日では、合楽理念という風に言われる様になったんです。私は今日御神前に出ましたら、大根のねこうとうの立った大根を頂いたんです。そしてどう言う事か分からない。とうが立てば勿論大根な、すぱすぱするごつ中に巣がほげると言う事だから、はぁ信心もこんな信心になっちゃいけないなと。
思うてここへ下がらせて頂いて、教典を開かせて頂いたらその二十九節でした。いわゆる桜の花の信心より、梅の花の信心という事ですから、言うならば、とうの立つ信心を、言うならば、桜の花の信心という風に聞いて頂いた。それこそ何時も瑞々しい生き方。一切を、いわば修行と受ける。そこから一切が神愛であるなと言う事が分かる。一切が神愛と分からせて頂いたら、もうそこには極楽の世界が、合楽の世界があるのです。そういう心が愈々深められ、高められて徳ともなり。
あの世にも持って行けこの世にも残して置けると言う事になるのです。昨日の御理解を、皆さんどう頂かれ、どう行じられたでしょうか。今月今日を一心に頼め。今月今日をどうぞ大切にさせて下さいという御理解でしたね。昨日はもう特に心を込めて、まぁ一言一言をまぁ大切にさせて頂いたつもりですけれども、まぁ一日を締めくくってみますと、あそこもお粗末であった、ここも目が粗かったなと思う事が沢山御座いますけれども。まぁ一生懸命にまぁ今日今月今日、只今を大切にさせて頂いた。
その今月今日只今を大切にさせて頂けば、どういう結果になってくるかと言う事を、昨日私高山さん所で聞いて頂いた。天地の運行ほど一分一厘間違いのない運行はありません。とにかく地球が一分傾いたら、富士山が海の底になると言われるのですから。天地の親神様としても、油断も隙もおありにならんという事です。いわゆる天地日月の心なんです。そういう間違いのない天地の、いわば働きを私共が受けて今日、おかげを受けておるのですよ。ですから私共が今月今日。
只今を大切にさせて下さいと言う事は、そういう念の入った神様の働きをです。大切にするというのですから。神様の心と通わない筈がないです。いやそれを教祖様は、実意丁寧神信心と仰せられた。天の心地の心それこそ、天は与えて与えてやまない麗しい心。地は、ただ黙って受けて受けて受けぬく心。そういう心を心とする。それが言うならば成り行きを大事にする事であり、今日只今を大切にする事であり。同時に一切を修行と受けた姿がそれなんです。
日月の言うなら正確無比の、いわば実意丁寧神信心とは日月の心。今月今日只今を大切にさせて下さいという、祈りの一日ですから。どういう問題でも言うならばあだや疎かには出来ないという生き方をさせて頂く。もう昨日の朝から高山さんところのお祭りをさせて貰うて、帰ってくるまでの、もうそれこそ一分一厘の間違いの無い神様の働きを、昨日聞いて頂いた。どうしてこういう素晴らしいタイミングが生まれてくるか。どうしてこのような一分一厘間違いのない働きが起きてくるか。
それは私が一生懸命に今月今日、只今を大切にさせて頂く精進をさせて頂いたからだと言う事になるのです。天地の運行ほど素晴らしい働き、一分一厘間違いのない働きを示し現して下さるものは、もう比類がないのです。ほんなら金光様の信心とは、その天地の親神様のお心を心とすると言う事なんです。所が人間凡夫の事で御座いますから、どこにお粗末があって、ご無礼があるやら分かりませんけれども。ただひたすら一筋にです、今月今日只今を大切にさせて頂こうとする精進にです。
出来ない所は神様がおかばいを下さる。そしてそれを出来たかのようにして、ほんなら昨日一日のように素晴らしいタイミングが、私の周辺に起きてくる。もう昨日は私は昨日は、小竹の加藤さんのお宅に奉祭式、大きなお宮を今度御本部から買ってみえておられました。でこの月次祭に霊神様の霊社と、二つを昨日幹三郎がお供をして、丁度川上さんが、お参りしておられましたから、一緒にいわゆるお神様を幹三郎、霊社を川上さんが奉戴して、そして小竹に向いました。
と言うのも実は私は大体、三時に見えるとい事であったから、私は昨日研修をね何時も三時からするのを、高山さん所のあれもあるし、ですからあの一時間早く、繰り上げてしておった。所が何時も二時から三時までに、確かにお参りが何時も続くのですけれども、研修をする間は、本当にもう何人かしか参ってこなかった。そして研修を終わったら、次から次と参ってくる。その参ってくる人達は、私が座っとったけん良かったち言うような人達ばっかりだった。だから結局四時まで。
だからあの丁度最後には、あの綾部さん所の娘さんが、親子三人で初参りをして来た。いやぁこの子はおかげ頂くばいち。もう私は大体今日はここには座っておられんとじゃったと。さぁそれからさぁ玉串を作れ、何をと言うてまぁあのお届けさせて貰うて、それからもうこっちは腹据えとりますからね。今月今日只今を大切にするというのですから。まぁ頂いた御理解をねんごろに説かせて頂いて。
それでほんならもう、愈々立たせて頂いてほんならね、正教さんあの小竹から見えたら、お神様をお供して幹三郎が行くから、川上さんがお供して行かれるから、家中の者が全部出てお送りをしなければいけないよと。私は、今からすぐお風呂入るから良いねと言うて、立ち上がった所へ、加藤さんが入っておられた。あぁそれからまた、の事のあれをさせて貰うて、自動車で小竹に向われるのを、ここからお供していくその人達を、後ろから後ろ祈念をさせて貰うて、それから準備にかかりました。
もうその辺の所がもう一分一厘の隙も無いごたった。もう昨日の一日はもう、朝からがずうっとそうでした。いわゆる天地の運行そのままのその働きが、私の上に合楽教会の上に現れておるんだ。だから皆さんの上にでもそういう働きが、お取次ぎの働きというものは、起こっておるんだあっておる筈なんだ。所が自分達の方がちっとばっかり、くるうとるけんでおかげのほうが、こう筋違いになるだけの事なんだ。だから先ず一つ本気で稽古をさせて貰うと言う事はです。
起きてくる一切の事を修行と受けるという腹を決めたら、どう言う事でも良い、受けられん事はないです腹が決まったら。そこに初めて一切が神愛だと言う、いうならば素晴らしい心が開けてくるんです。この一切が親愛だという有難い、勿体ないの上に人間の幸福の条件が、もう全て足ろうてくるんです。そして油断なくほんなら、今月今日只今を今日もまた、言うならば只今を大事にさせて下さいという、祈りの元に行く。そこにはとうの立つ暇がなか。
何時も瑞々しい何時も神様と交流しておる働き。何時も神様のリズムが聞こえてくる。そのリズムに乗っての日常生活ですから、難しい事もなからなければ険しい事でもない。ただ、そのリズムに乗ってのですから、楽しくて有難うしてそして、愉快な心までが生まれてくる。それでいてほんならこれで済んだとは思いません。一日を締めくくって御神前に座った時に、本当に今日は出来もしませんのに、こんなにも一分一厘間違いのない働きをいただいて、有難うございますと。
御礼を申し上げると同時に、思うてみるとあそこも目が粗かった、あそこも間違うとったなと言う所をお詫びをする。詫びれば許してやりたいのが親心じゃと仰るから。ね。また明くる日がもう全然間違ってなかった事として、神様は受けて下さる。そのもう毎日毎日がただ全部が御詫びせにゃん事ばっかりのようでは詰まらん。矢張り一切を修行として受けれる一切のものやら、事柄と対決した時に対決する時に力を受ける。それに打ち勝って行く所の信心。
それが出来てこそ初めて、一切が神愛という実感した心の状態が開けてくるのです。私は昨日そしてあの、加藤さんをお送りして、それからさぁお風呂入ろうと、言うとる所へ繁雄さんが丁度見えました。もう間髪を要れずほんなら背中を流させて貰うて、それから着物を着けてほんならもう外へ出とこうか。もう偉い四時半に迎え来るとが遅うなっとります。表へ出たら言うなら高山さん所が迎えにきとるのが一緒でした。
それでまぁみんなも出てきて家内が、あぁたあっちのほうへ行きなさるなら、いっちょ良子さんがとこへ寄って下さいち言いますもん。嫁が今小野病院に入院してますから。良子さんが大変好物の、その栗のお菓子が来とるけん。これを持って行ってやって下さいち。まぁ家内としてはその孫とば対面させてという気持だったろうと思いますけれどもね。ほんなら持って行ってやろうかち言うちから、あのおかげでその小野病院にまで、回らせて頂いて、そして孫との初対面もして、それから高山さん所へ。
もうそれはもう本当にもう置いたものを取る様に、一分一厘の隙も間違いもない様な、まぁ言うならば一日でしたそれはね。今日を愈々大切にさせて下さいという信心から生まれる。またほんなら私は今日、一生懸命今日を大切にしたけれども、どうもちぐはぐだった。そのそんならば内容がね、そこまで行くためには、先ず一切が修行であるとか、一切が神愛であるとかと言う様な信心を、言うならばそれを繰り返し繰り返しさせて頂く信心を、今日は梅の花の信心信心辛抱というね。
桜の花の信心より梅の花の信心。まぁ高山さんの御霊様には悪いち言う事はない、やっぱ桜の花的な性格を持っておられましたから。お父さんの信心が桜の花の信心であったならば、その桜の花の信心より、梅の花の信心をせよと言われる。その梅の花の信心を奥さんががっちりと受け止めて、只今ほんならそういう梅の花の信心が出来ておる所であります。そしてほんならまぁ今日のおかげを段々頂いていく。しかもそれはですそういう瑞々しいおかげを頂く為には、そういう修行が一生続けられなきゃならん。
一生が修行じゃと仰るのですから、あられもない修行をしたっちゃつまりません。神様が私に求めて下さる修行との対決において、それに打ち勝っていく修行をさせていただかなきゃなりません。そこから何時も言うならば、とうの立ったじゃない、ね。何時も瑞々しい言うならば、信心生活また瑞々しい神様の働きに、恐れ入ってしまう生活も出来るし、恐れ入ってしまうほどしのおかげも、またそれに伴う事は勿論ですよね。
どうぞ。